【 概 要 】−壬生城は文明年間(1469〜86)に壬生綱重によって築かれたのが始まりと伝えられています。その後、綱雄の代まで居城として機能し義雄の代で居城を鹿沼城を移し壬生城には城代を置きました。天正18年(1590)、小田原の陣に際し壬生氏は北条氏に組みした為、領地を取り上げられ本家筋は滅亡すると壬生城は廃城となります。その後、壬生領は結城秀康の支配下に入りますが、関ヶ原の戦いの功で秀康が越後に移封となり、慶長7年(1602)に高島藩(長野県諏訪市)から日根野吉明が1万900石で入封し壬生藩を立藩します。この時荒廃していた壬生城を大改修したと思われ、以後、阿倍氏、三浦氏と続き元禄5年(1692)に松平輝貞が3万2千石で入封すると城下町などの整備がさらに進められます。その後加藤明英(2万5千石)を挟み正徳2年(1712)に鳥居忠英が3万石で入城してからは、明治維新まで鳥居氏8代の居城として存続しました。戊辰戦争では官軍の拠点の1つにもなり、ここから宇都宮城へ進軍しています。明治4年(1871)、廃藩置県直後に城は払い下げられ(小山市の民家に城門が移築されています。)廃城となります。城郭は本の丸、二の丸を中心に三の丸、東曲輪、下台曲輪、正念寺曲輪の六つの曲輪が輪郭式に配置され、天守閣や櫓などの高層建築は設けられませんでした。現在は一部の土塁と水堀(元空掘)が残り、本丸は公園として整備され資料館が建っています。
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