栃木県・小山市・高椅神社(日本武尊縁)

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高椅神社
【 概 要 】−高椅神社は日本武尊縁の神社として知られています。伝承によると日本武尊が現在の東北地方に蝦夷と呼ばれる朝廷とは異なる自然と共に暮らしている民達を暴力によって征服しようと当地まで進軍してきた際、御旗を立て国常立尊、天鏡尊、天萬尊の3神を当地に呼び寄せ蝦夷征服の祈願を行った事が高椅神社の起源とされます。日本武尊の家臣である磐鹿六雁命は蝦夷討伐(征服)軍から離れて当地に土着して国常立尊、天鏡尊、天萬尊の3神を祭り子孫も同様に奉斎を続けました。その子孫は天武天皇の時代に高椅姓を賜り、その後当地は高椅と呼ばれる地名となり、神社の社号も高椅神社に改められています。平安時代後期の長元2年(1029)に高椅神社の神領で井戸を掘ったところ、神の化身か遣いのものと思われる大きな鯉が出現した為、当時の高椅神社の神主が京都に上洛し朝廷でこの話を申し上げると、朝廷でも神の仕業との御沙汰があり「日本一社禁鯉宮」の勅額を賜っています。その後は高椅神社の関係者や信仰する人々は鯉を食すだけでなく、鯉の描いた器を使用する事も禁止し五月の節句でも鯉幟をあげないという風習を続けています。逆に高椅神社の境内に設けれた池には数多くの鯉が奉納され「鯉の明神さま」の別称が付けられています。さらに時代が下がると当地は結城家の所領となり、歴代当主は高椅神社を篤く信仰し庇護を加えています。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで徳川家一族として西軍に与した上杉景勝軍の西上を阻止する牽制に成功した結城秀康が福井藩に加増され当地を離れた後も高椅神社の例祭には代参を派遣しています。その後は歴代結城藩主が高椅神社の庇護を続け、江戸時代中期の明和7年(1770)には藩主である水野家により高椅神社の楼門が造営され現在では栃木県指定文化財に指定されています。
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